裁判所はどのような方法で病院側の責任を判断するのか?
医療従事者が訴えられる場合、何か落ち度があったために健康被害や死亡などのマイナスの結果が生じたとして、損害賠償を請求されます。この落ち度のことを、法律用語で「過失」といいます。
もっというと、過失とは、すべきことをしなかったといえる場合であり、交通事故でいえば、前方をしっかり見ておくべき注意義務があったのに、それを怠ったために人を轢いてしまったという「注意義務違反」という言葉に言い換えられます。
医療訴訟でも、様々な医療行為について、注意義務違反があったかなかったかが争点となり、その判断によって、医療側が責任を負うかが判断されます(その他にも、その健康被害や死亡という結果が、本当にその注意義務違反によって生じたものかという「因果関係」が争点になることもあります)。
では、どのような場合であれば注意義務違反があったといえるかについて、裁判所はどのように判断しているのでしょうか。仮に、感覚的にとか、印象的にとかというレベルで判断されてしまっては、医療側はたまったものではありません。したがって、裁判所は、一定のルールに従って注意義務違反の有無を判断しています。
今回は、少し歴史的に、裁判所の注意義務違反の判断方法の変遷を見ていきたいと思います。この判断方法は、患者さん側、病院側の勝訴率にそのまま影響するものですので、興味深いものとなっています。
まず、出発点は、梅毒輸血事故事件の最高裁判決です(最判S36.2.16)。
事案は割愛しますが、この事件において、最高裁は、医師の注意義務について、「いやしくも人の生命及び健康を管理すべき業務(医業)に従事する者は、その業務の性質に照し、危険防止のために実験上必要とされる最善の注意義務を要求される」と判示しました。
難しい文章ですが、要約すれば、「危険防止のために実験場必要とされる最善の注意義務」を守っていたか否かという方法で注意義務違反を判断するようです。しかし、「最善の注意義務」といわれてもなかなかピンときません。
その後、この部分は、別の最高裁判決で明確化され、「当時の医学水準」を医師の注意義務の判断基準とするに至りました(最判S54.11.13)。つまり、「医療」ではなく、「医学」を基準に判断すべきとの考えを採ったのです。
しかし、この「医師の注意義務=医学水準」という判断方法は、医学水準と現場の医療に妥当する医療水準とは異なるものであり、医学水準を要求することは、現場の医療従事者にとって酷なものであるとの批判が相次ぎました。
この批判に、一連の未熟児網膜症事件の中にあった最高裁(最判S57.3.30)も答える形となり、「当時の医学水準」ではなく、「人の生命及び健康を管理すべき業務に従事する者は、その業務の性質に照らし、危険防止のため実験場必要とされる最善の注意義務を要求されるが…、右注意義務の基準となるべきものは、診療当時のいわゆる臨床医学の実践における医療水準である」という考えを示しました。
ところが、この最高裁判決は、少し行き過ぎた運用をされ、現場の医療の行うことは正しいから、従来とられていた方法による医療行為であれば、注意義務違反にならないという傾向が出てきてしまいました。
この傾向は、医療側からしてみれば、裁判では負けることが少なくなる点でメリットはありますが、一方で、医療の閉鎖性、独善性などがクローズアップされてしまい、少しゆがんだ見方をされてしまうことにつながるというデメリットもあります。要するに、判断方法が、患者さん側か病院側かの一方に極端に寄った形での判断は、なかなか説得力を持ちえず、両方のバランスを重視した判断が必要になると考えられます。
この続きは、医療慣行(その病因で従来正しいとされてきた行動規範や治療法のこと)との関係で、もう少し医療水準を学んでいきましょう。
以上
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